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グランド・フィナーレ

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「フィクション」って何なのか。もちろん、架空の出来事・人物・舞台を設定した物語のことだ。フシクション小説に出てくる人とか場所は架空ってことになっている。架空って何のことか。実在しないってことだ。でも架空=リアルじゃない、とは限らない。むしろ小説の世界に読者を引き込ませるには、登場人物の考えとか行動とか舞台が完全にデタラメであるよりも、読者が「ついていける」リアル感が必要になる。もちろんそうでない小説もある。小説じゃないけど、「古事記」みたいな作品を感情移入して読むことは難しい。でもまあ多くの小説は読者がその中の登場人物に感情移入して、あるいは少なくともその小説の世界の中で登場人物のそばにいることで、物語の展開を追っていくことができる。物語の展開にハラハラドキドキ(陳腐!)することができる。それは突飛な世界を描くSFでもそう。むしろSFのほうが「なんだこのハチャメチャは」と思われないように、そこに出てくるツールとか技術とかロジカルに説明されていることが多い。要するに、「フィクション」であっても、読者にとってある程度のリアル感を担保しておくことは必要なのだ。

映画にも似た部分がある。誰かが「映画とは(映画館で)観客が同時に同じ夢を見ることだ」と言っていたように、「フィクション」であることを忘れて物語に没入するものだ。ただ、「フィクション」はあくまでも「フィクション」であることは間違いない。映画や小説の登場人物が死んでも、それは本当にどこかの何がしさんが死亡したことを意味しない。

こういう「フィクション」のambivalentな部分を利用する作家もいる。ゴダールの映画では、「観客はこれは作り物だと分かっているんだから」とか言って、物語を追いにくい編集をしたり、映画の最中に登場人物が画面に向かって観客を意識するそぶりをしたりする。これとはまた違うが、「フィクションを遊ぶ」という意味では、フィリップ・ディックのSF小説(SFと言っていいのやら・・)は、一人称で物語が語られていたかと思うと、いきなり後半に主人公の思考・行動が破綻し、読者はついていけなくなる、という構造がままとられる。こんなトリッキーなことをしながら、かつ作品を「面白く」するのはかなり難しい。

阿部和重氏の作品は小説の「フィクション」性を利用して、それをずらしてみたり、最後にさかさまにしたりして見せたりすることが多い。ゴダールとディックに影響を受けた、と本人が語っているのも無関係でないのかもしれない。阿部氏のすごいのは、それを現代の日本の(若者の)感覚に近い社会セッティングの上で、作品を「面白く」させていること。まあ、少なくとも俺にとっては面白い。

俺は阿部氏の「インディヴィジュアル・プロジェクション」は最高傑作だと思うし、「ヴェロニカ・ハートの幻影」も大好き。日本の現代作家の作品はあんまり読まないんだけど、大江健三郎は自分の感覚に近い感じがしてびっくりして好きになった。阿部氏にいたっては書いている社会セッティング(クラブとか渋谷とか・・・)も近く、本当に自分にとって「しっくり」くる貴重な現代の日本人作家の一人だ。

で、この「グランド・フィナーレ」。芥川賞を受賞したので注目されて、これまで阿部氏の作品に接したことがない読者層を獲得したのは喜ばしいけど、どうもネットでの評価を見るとイマイチみたい。「へ?これで芥川賞?」とか。サラーっと読んじゃうと、確かに前半と後半の構成も意味不明だし、何か意味ありげな展開も中途半端で終わるし、そのわりに文章はあっさり目だし、と読後感はさえないかもしれない。解説を書いている高橋源一郎氏も最初に読んだときは全く良い印象を受けなかったと言う。

でも俺はこの作品、大好きだ。文学評論家じゃないので文学的見地から(笑)評価の低い・高いは論じられないけど、これはまた俺にとって「リアル」で、かつ小説の「フィクション性」で遊んだ、愉快な作品。実際、読みながらゲラゲラ笑った。同時に、ものすごく怖い作品。

主人公の沢見はロリコン趣味がたたって離婚し、一人娘ちーちゃんとも隔離される。ちーちゃんともう一度対面しようと画策するけど失敗し、うだうだ言いながら過去を振り返るのが前半。後半は沢見は故郷の神町(他の作品でも良く舞台となりますね)に戻り、悪い趣味への欲望が復活しないように子供を避けながらしばらくプラプラするが、ひょんなことである2人組の小学生女子の卒業前の演劇を指導することになる。やがてその2人組は自殺するのではないか、という疑いを持ち、過去に自分が子供にしたことへの罪悪感なども手伝って、2人の自殺をなんとしてでも阻止しようと思うが・・・

というのがストーリー。「面白い」のは、クラブにでてくるろくでもない連中とかその話とか、まあ俺の知っている人たちそっくりで非常に「リアル感」があること。また、沢見の経歴が徐々に暴露されていく展開も、手堅くエンターテイメント的に面白く描かれている。
「怖い」のは、読者は沢見の独白で展開される物語を、信用できなくなってくること。沢見の独白を信じれば、後半は「改心し、過去の罪悪感から少しでも「良いこと」をしようと始める主人公」という展開にも読めるが、それも信用することは出来ない。すでに前半部分で、沢見の「思い込み」による世界が、Iという女性の発言で暴かれるからだ。「藪の中」の話を、登場人物の1人の「思い込み」で語られているのを聞いているようだ。だから、最後に本当に沢見が2人を助けるのかどうかは保証できない。ちーちゃんにしたことと同じコトを、2人にするのかもしれない。

この主人公を「信用できなくなる」、っていう展開は阿部氏の作品の醍醐味の1つ。村上龍の初期の作品は、主人公が世界を見る「感性(=レンズ)そのもの」にフォーカスして描かれる、という面白さがあったけど、阿部氏の場合はその「感性(=レンズ)」さえも頼りないものなのだ。そんでもって、もっと怖いのは、我々の「本当にリアルな」現実世界は、実は阿部氏の作品のような世界に近いのではないか、と思えてしまうことなのだ。

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ブログ王

  by helterskelter2010 | 2009-01-03 02:46 | Books

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